紅葉で名高い房総の養老渓谷に出かけたが、山の木々はわずかに色づき始めたばかりでまだまだだった。意気消沈していると館山市内に「安房国分寺」の標識を見つけて見学した。すると、山門脇に大きな供養塔とともに「三義民墓」があった。
私はまったく知らなかったが、この地で1711年に大規模な農民一揆があり、3人の名主が処刑されたという。一揆は「万石騒動」と呼ばれ、幕府が藩主を改易にまで追い込んだ農民一揆は1637年の島原天草の乱、1754年の郡上一揆と万石騒動の3つだけであり、江戸時代の代表的な農民一揆とされている。
1703年、南房総の27か村の領地を支配する北条藩(屋代家)は、元禄大地震によって大きな被害を受けたので、家老・川井藤左衛門らによって、用水路や農地を整備するとともに、逼迫する藩財政を立て直そうと年貢の増収を図った。農民たちには無償労役をさせ、年貢を倍増するなど大きな負担を強いたので、27ヵ村を代表する名主や農民ら600余名は、蓑と笠に身を包み、北条陣屋・北条藩江戸屋敷への門訴、さらには当時固く禁じられていた幕府老中への駕籠訴を行った。そこで川井らも湊村角左衛門や国分村長次郎、薗村五左衛門の3人を見せしめに処刑したが、その後も決死の駕籠訴は続き、最終的に川井らは死罪処分になり、屋代家も改易され農民側の勝訴となったのであった。
3名主が処刑された場所には現在、「三義民刑場跡」の石碑があり、今も地元では犠牲者を弔って11月26日に年忌法要が続けられていて、300回忌の法要にあわせ「義の伝承碑」が建てられたという。碑にはこう記されている。
《この一連の事件は、安房国北条藩一万石の領内で起こったので「万石騒動」と言われ、処刑された三名の名主は「三義民」と呼ばれて郷土を救った恩人として今日まで讃えられている。先祖が残したこの揺ぎない信頼感と堅い団結力。事ここに及んでの神文・傘形連判状などに見られる周到さと知恵。決して暴力に頼ることなく、あくまで言葉と文章で自分達の窮状を訴え続けた忍耐力。これらは、「義」を貫いた強い心と共に私達の誇りであり、人生の指針としてこれからも末永く生き続けていくことであろう。》
非暴力・平和の力で搾取をやめさせる社会をめざした先人の運動に学びたい